鶴 耀一郎



ダイビング界の重鎮たちも認めた、魚突きのチャンピオン

国内で行われた数々のスピアフィッシング大会で優勝
CMASが開催するブルーオリンピックにも、スピアフィッシングで3度
‘65 タヒチ(第7回)、‘67 キューバ 、‘69 イタリア と、続けて出場
タヒチの大会で5位に入賞するなど好成績を残し、その名は世界のスピアフィッシャーマンたちの知るところとなる。


鶴さんバラエティに出演!?

当時の静的閉塞潜水の世界チャンピオンと “息こらえコンテス
ト”で対決する番組にひっぱり出される。

メンバーはチャンピオン、海女さん、そして鶴さん。

“チャンピオンが4分30秒でストップ、私はそれを横目で見
ながら欲を出して、5分12秒まで我慢した。そして、水槽か
ら立ち上がり、一呼吸してからぶっ倒れた。”


“息こらえは専門ではないし、そんなことは興味もなかった。”と言いながらも、ここまで出来たら大したものだと思う。
ちなみに、ブラックアウトする前に一呼吸することで数秒後、自力で意識を取り戻す事ができるらしい。
“この一呼吸するまでの理性の強さ、限界を見極める力を自分自身でしっかりつかんでおく事が大変重大なことです”

ジャック マイヨールが、伊豆の伊東で76mの記録を出した時、
タンクで80mまで潜り、サポートする。
“私たち日本のダイバーが、スキューバでではあるが、80mまで潜って彼に協力したことに、彼は驚いていたらしい。そんなに潜って協力してくれるダイバーが、日本にいるとは思っていなかったようだ。”

そして、一冊の本を出している。
昭和48年 発行の“ スポーツ潜水 ”
当時、日本潜水会の指導員であった事もあり、素潜り・潜水スポーツ・ス
キューバ潜水など、幅広い内容で書かれている。



ドキュメンタリーにも出演!!

海の会のメンバーでフィエスタ号に乗り、横須賀永浦港を出発
孀婦・仲人島・母島・西ノ島新島・硫黄島・南硫黄島と廻り、
最終目的地の南日吉海山に潜り、65kgのロウニンアジと、120kgの巨大ハタを突いた映像は、多くの人の目に留まったと思う。









鶴さんとセニョール





初めて鶴さんに会ったのは、当時盛んに行われていたスピアフィッシング大会の会場でした。
そのころすでに有名人で、スピアフィッシング界のスターだったため、取り巻きも多く、なかなか声をかける事ができなかった。
その時鶴さんがたくさん持ってきていた銃の中で、一際目を引いた木製の銃を見ていると、

“ 触ってもいいよ ”

鶴さんがそう声をかけてくれた。
その瞬間、私の中で鶴さんは“ すごい良い人だ ”というポジションを確立した。

その後、何度か会うこともあり、話をしたこともあったが、
私と鶴さんが親しく交流し始めたのは、鶴さんが最後にかかったきつい潜水病の後で、
残念ながら現役バリバリの鶴さんと素潜りで魚突きを楽しむことはできなかった。
しかし、タンクを使って漁を続けることはできたので、奄美に行った時には、鶴さんはタンク、私は素潜り、二人で船を出して漁をしに行きました。

ある時、私が海底で魚を待っていると、何やら気配がした
水面を見上げると、鶴さんが上からこちらを窺ってるのが見えた
エアーが切れて漁を終えた鶴さんが、タンクと魚を船に下ろして私の魚突きを見に来ていたのだ。
そうなると簡単には浮上できない
その日は、2日目ということもあって非常に調子が良く、息が持った
鶴さんの見ている前で、何かいい魚を突きたい
しかし突きたい魚が一向に姿を現さない、いくら待っても出てこない
居ないものは突けない、仕方が無いので浮上した

そのあと漁を終えて、船の上で長い間話をした
その時鶴さんが私にこう言ってくれた

“ あの時、あの辺りにいた魚がお前の周りにみんな寄って来てたよ ”

もしかしたら私を喜ばそうと思って言っただけなのかも知れない
でもあの鶴耀一郎がそう言ってくれたのは紛れもない事実で、
そのことは今でも私の誇りになっている。

“ 魚突きが終わって仲間とこうやってる時間がいいんや ”

現役バリバリの頃はこんな事して無かったかも知れないが、そのころの鶴さんはそういうふうに言っていた

この時は3日の滞在で、奥さんは田舎に帰ってるか何かで不在でした。
鶴さんの家でお世話になり、漁にも出て、ゆっくりといろんな話もできた
そして帰るときに、

“ 俺が空港まで送り迎えしたのは、お前と嫁さんしかおらん。
        それと俺に3日間味噌汁作らしたんはお前だけや ”

笑いながらそう言った鶴さんの顔は、今でも忘れられません。






        つづく!!